平成31年は4月30日をもつて幕を閉じ5月1日に改元される。その日は私の誕生日で83歳と一日目だ。このとしになると両親も兄弟も叔父叔母も他界して久しい。
私が集めた資料で父方の父祖のことを子やその子たちに記しておこう。
彼女(彼)らは知らないことだろうと思うからである。
尊属で私が遡れたのは高祖父までの五代、それより先のことは残念ながら私の手では手繰り寄せられない。
私→博→毬三→宗次郎→市右衛門
家紋は「五瓜に桜」。
生前の兄が東松山市内の石材店に彫らせた石版のうちの1枚。
祖父鈴木毬三(嘉永5年2月25日生~明治41年12月18日没)については何点か資料がある。
墓に「五瓜に桜」の家紋が彫つてあるのを見ると不思議な感がする。
祖父は生前自分の入るべき棺を作つておいたという話は父や叔母(明治19年生)から聞いたことがある。叔母は幼かつた頃、家の押入れの中にしまつてあるのを怖がつたそうだ。
幼少年から成年まで武士として生きた矜恃や明治の世に生きた祖父の死生観を知るのは難しい。しかし、私の住む陋屋にあの直方体を入れるべき空間が押し入れに無いことだけは確かである。
私の生まれる28年も前に祖父は亡くなつた。 私と父の間に祖父のことが話題になることはなかつた。教員だつたとか、背中のでき物の膿を取るために家人に小柄で切らせたとか、何かの記念碑の建立に首長の名の碑文を揮毫したとか。
濡れた手ぬぐいの両端を持つて上下へ振り下ろすことは忌み事だつた。バサツ!という音が斬首の時に似てると父に言われたが、父は誰から聞いた話だろう。
生前の唯一の写真
唯一染筆の句稿
祖父は晩年、寿扇と称して俳句を嗜んでいた。添削料を添えて投稿しては師匠の朱を入れるてもらうのを楽しんだらしい。朱筆の符帳の意味は分からないが、句柄は旧派に属する俳句であつたようだ。
日赤社員標
父が職を得て生家を離れるとき母(私には祖母)が餞として句稿一葉と渡したくれたものという。長子相続の時代にあつて土地家屋を長子でない父が譲られることはなかつた。その後、嫂の不行跡や浪費で家の財産は無くなつてしまう。父は生涯この木札と――それは幾ばくかの金員の寄付を受けた日赤が証しとして寄付者に出したものに過ぎないかも知れないが――句稿の2点を大切に仕舞つていた。壮年の父の勤務地を巡り、110年を経た今、祖父の名の正社員標は我が家の仏壇に、句稿は額装されて折に触れて飾られる。
父は生前、自らの葬儀について、「棺にさらしを巻いて刃物を置けばそれでいい」と言つていた。昭和43年に父は亡くなつたが、世上のしがらみもあつてそれは叶わなかつた。白布に覆われたひつぎに脇差ひと腰、花と香、ほかに何の飾りもない葬儀。そんな原風景を父はいつどこで見たのだろう。祖父を2歳の時、父を16歳の時に亡くしているから、父の葬儀の時の様子だつたのか。もしそうなら明治も末の小さな城下町の下級武士たちの葬制を父はずつと記憶してたのかも知れない。
除籍簿(1)~(3)
祖父毬三の父、宗次郎(文政4年10月16日生~明治27年2月22日没)が2歳の時、文政6年桑名から転封に従つて家人らと忍へ。家の中は暫く桑名弁だつたろう。明治になつてから督保と名乗り、74歳で亡くなつた。
宗次郎の長男分家により毬三が戸主であつたこと記載する戸籍の除籍簿(1)
宗次郎の二男八十之助の本籍を変更し八十之助を戸主とする戸籍の除籍簿(2)
宗次郎の父の名が市右ヱ門(私の高祖父)と記載されている。
高祖父の生年・没年、墓ともに分からない。
毬三死亡により前戸主と記載する戸籍の除籍簿(3)
曾祖父 鈴木宗次郎
埼玉県史調査報告書 『分限帳成』 埼玉県県民県史編さん室 昭62年3月刊
忍藩 嘉永6年松平忠国家中分限帳 161ページ に記載
旧忍県分 「士族卒家禄人名取調帳」に記載されている。
1、忍藩分限帳(松平家)より役名順
前文の説明を引用
◯ 御広敷錠口番
六石二人扶持 佐野三次
二両二分二人扶持 福田伊八
一両一分二人扶持 福田茂十郎
二両三分二人扶持 山本三平
◯ 御台所奉行支配油方 役料二匁六分
五石二人扶持 武田稲八郎
六石二人扶持 一代組貫鈴木宗次郎
◯ 大阪御役所物書
四石二人扶持 田中弥平
三両二分二人扶持 山中卓蔵
曾祖父の名のある部分を抜粋
全文は「忍藩分限長」をAdobe PDFで見ることが出来る
5、忍藩士族名簿より
前文を引用
ものである。
これに記載してある者が悉く士族に列せられたのだ。士族としての記録の
殆んど無いので記録した
六石四人扶持
牧野正賀
大村瀬左衛門
大竹又四郎
鈴木毬三
山島鋒一郎
小川軍之助
祖父の名のある部分を抜粋
全文は「忍藩分限長」 Adobe PDF で見ることが出来る